大内義隆公タイトル

 大内義隆公 (1507年〜1551年)

 山口は西の京と呼ばれる大内文化が開花した。周防・長門・石見・安芸・豊前・筑前の守護。享禄元年(1528)に家督を継ぎ、祖父伝来の6カ国に加えて備後の守護となると共に、天文1(1532)年少弐・大友氏を破って北九州を制圧。
同5年第105代後奈良天皇即位式の費用を献ずるなどして大宰大弐の官位を朝廷より得、北九州を中心とした貿易権を握る。儒学、仏教、神道、和歌、連歌、管弦、有識故実など多彩な方面の学問や文学を好み、京都から多くの公家や僧侶を招いて中国地方に京都文化が伝播する契機を作った。 
 一時大内家の全盛期を齎すが天文11年(1542)に出雲・尼子氏と戦うが敗北、大内氏の領国体制を大きく揺るがせる。これより益々公家社会に憧れ、学問・文芸に打ち込むようになり、天文19年山口を訪れた宣教師フランシスコ・ザビエルが謁見の際にはキリスト教の領内布教許可を与える等、国事を忘れて文弱に流れていると、武断派家臣等の不満をかい特に陶隆房(後に晴賢)は主君を除くべしとした。同20(1551)年家臣陶隆房の謀反計画に内藤氏・杉重政等も加担、この挙兵により山口を追われた義隆は親族の大友氏を頼って再建を 計らんと九州へ逃れようとするが、悪天候のため力尽き、引き返して 9月1日長門大津郡深川の大寧寺に入山、討手に追われて大寧寺に入る前に義隆は、かき乱れた髪を整えようと傍らの池の水に顔を映そうとしたところなんと自分の顔が映らなかったという。その池の名は「姿見の池」と現在も残っている。そこで、義隆公は自分の命運が最早尽きたことを悟ってこの大寧寺に入り、静かに自刃をしたと伝えられます。 この時、義隆公は行年45歳、その子の義尊君もわずか七歳の若さであった。  

    義隆公辞世の句、「討つ人も討たるる人も諸共に 如露亦如電 応作如是観」・・・

居城/周防国、大内館   

家紋/大内菱 

先祖/百済聖明王の第三子、琳聖太子

系図/琳聖太子−(15代略)−17弘盛−18満盛−19弘成−20弘貞−21弘家−22重弘−23弘幸−
          24弘世−25義弘−(26盛見)−27持世−28教弘−29政弘−30義興−31
義隆−32義長
                 

<一口メモ>
 大内弘世は足利将軍義詮から周防・長門・石見の守護職を与えられ、本拠地を周防山口に移し大内館を築く。応仁の乱(1467〜77)で政弘は西軍の総大将であった。政弘は文化振興にも意を用い、多くの文化人が活躍し、山口は西の京と云われる大内文化を築いた。義興の代で山口文化は最盛期を迎えた。しかし31代義隆公は重臣の陶隆房に伐たれ、大友家から後嗣に迎えた32代義長(宗隣の弟晴英)もその陶氏が厳島にて安芸毛利氏に討たれてから所領を次々と侵略され力を急速に失い、最後には山口を捨て且山城に篭るが、家臣にも裏切られ1557年4月自害して果てる。

 以上、大内家は歴史上では全て滅んだことになってはいますが、
四国愛媛の片田舎で450年以上も経った現在でも、姓名を豊田と改名して直系一族の子孫達が立派に繁栄しているのです。戒名は大寧寺で龍福寺殿瑞雲珠天大居士として一応祀られていますが、本当の戒名は【常信院殿法壽日剱大居士】と称して豊田家代々一子相伝で継承祭られています。実は子供である二男の幾代丸は海路を愛媛県松山市北条に逃れて、布屋の屋号で酒造業を営み豊田幾之進本義と改名して、元亀元(1570)年に本妙院日法上人を招いて法善寺の開基として明暦元年93歳で亡くなる迄長生をきされたそうです。色々な歴史HPでも調べて見ましたが、大内義隆公の事は歴史のブラックホールなのか何故?どうしても見つかりません。2000年の9月1日が四百五十回忌に當たった悲運の武将です。このHPで大内公にもっと光を当てて戴ければ幸甚です。その他、何か大内義隆公と大内一族や豊田家についての情報をお持ちの方が、もしおられましたら是非共お知らせ下さい。               

愛媛県松山市北条辻1358 本妙山法善寺第26世住職 村口泰則、三拝。 Fax089-992-2474


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